はじめまして、株式会社榮太樓總本鋪の代表をつとめます細田将己と申します。社名を申し上げると「榮太樓飴の会社さんね」と仰っていただくことも多いので、そちらの方が通りがよいかもしれません。赤、黄色、緑といったカラフルでレトロなデザインの缶。小銭を缶の蓋と胴の間に差し込んでひねると、プシュッと空気が入る音がして蓋が開き、中には△の形をした飴がぎっしり詰まっている。祖父母の家にいつも常備されていた、缶がきれいだから食べ終わった後もちょっとした小物入れとして利用していた。昭和ノスタルジーと共に懐かしく思い出していただけることも多い私共の看板商品です。
さてそもそも飴というものは、実は南蛮渡来の輸入菓子の一つであったことをご存じでしょうか?時代はさかのぼり1600年頃、ポルトガル・スペインより宣教師たちが来日した際に、鉄砲やキリスト教などが伝来し当時の政治や文化に大きな影響を与えたことはご存じかと思います。菓子の世界では「スペインのカステーリャ王国の菓子」であると説明を受けた焼き菓子が転じてカステラとなり、「砂糖菓子」を意味するコンフェイトが金平糖となったことはよく知られています。それらと同じようにポルトガル語で「糖みつ菓子」を意味するアルフェロアという菓子が紹介され、日本では有平糖(あるへいとう)と呼ばれるようになったものが現在皆さんに親しんでいただいている飴の原型です。
ポルトガルの首都リスボンより西に1,500㎞、大西洋のほぼ真ん中にあるアソーレス諸島テルセイラ島は当時砂糖きびの栽培が盛んで欧州向けの砂糖の一大生産地でした。さとうきびのしぼり汁をそのまま煮詰めて作る黒糖に対し、精製してあくを抜いて作られる白い砂糖は貴重なもの。白い砂糖をふんだんに使って作られるアルフェロアは珍重され、宣教師たちによる戦国大名への献上品として日本に伝わりました。
当時の日本では飴といえば、でんぷん類を糖化して作る水あめのこと。有平糖の鮮烈な甘さが驚きをもって受け入れられたことは想像に難くありません。日蘭貿易では実に輸入品の1/3は白い砂糖であったという記録が残っており、その支払いの為に海外に流出する金・銀の量は看破できないほど莫大だったようです。そこで享保の改革で有名な財政再建を行っていた八代将軍徳川吉宗は砂糖の国内生産を奨励し、気温の温暖な琉球(沖縄)を中心に砂糖きびが盛んに生産され製糖業が発展していきます。結果、庶民の口に砂糖が届くようになるのは18世紀末の頃を待たねばなりませんが、それまで上流階級に限られていた菓子文化は砂糖の普及と共に一気に花開いていきます。
私たちがお江戸日本橋で創業したのはまさにその頃1818年。貴重な白い砂糖に少しの水あめを加え溶かした蜜を銅窯に注ぎ、強火で一気にカラメライズさせ香ばしい風味をつけます。仕上げに紅を少しさし、一粒ずつ指で形を△に整えた姿を当時の人たちは「甘い飴なのにまるで梅干しだね」と評してくれた為、「梅ぼ志飴」と洒落た名前が付けられました。
「梅ぼ志飴」は今も私たちの工場で南蛮渡来のアルフェロアの製法のまま作られる有平糖です。
冬は空気が乾燥し、喉がいがいがしやすくなることで飴の需要は高まります。私共の榮太樓飴は江戸の頃より日本人の喉を癒し続けて200有余年、今年の冬は日本の砂糖の歴史に思いを馳せながら、美味しい飴を口にふくんでみてはいかがでしょうか?
株式会社榮太樓總本舗 代表取締役社長 細田 将己