本年の彼岸の入りは3月18日である。中日が21日(春分)、彼岸明けが24日となる。7日間がお彼岸となったのはよくわかっていないようである。お彼岸は古くは平安時代中期には行われていた行事で、源氏物語には「いとよき日」と書かれ、公家の一般行事としてすでに7日間とされていた。彼岸というのは亡くなった人達が住む世界であり、現実世界は此岸という。仏教用語である彼岸は煩悩を去って悟りの境地になることで、無信心の私には難しい世界である。ところで、この7日間のお彼岸はもともと我が国固有の先祖を祀る行事に仏教の西方浄土信仰が合わさったもので、日本独特という。
子供のころからお彼岸にはお墓参りを目的に親戚一同顔を合わせたが、盆や正月ほどの緊張感はなかった。春先でもあるので山々の景色が暖かさを醸して、ウキウキした墓参りであった。屋敷内の裏山の中腹の一角に先祖代々の墓があり、墓参り道具一式を持参しての山道は思い出深いものがある。竹林を抜けると一面が開け、一望する景色は桃源郷を彷彿させ今では開発で面影もないが脳裏には焼き付いている。日本の山村の原風景を見渡せる墓地を設けた祖先の気持ちを思いやる時間でもあった。
お此岸には「ぼたもち」が作られるが、モチ米に2割くらいのウルチ米を合わせると蒸さないで炊くことができる。炊いた飯を適当に擂粉木でつぶして粘りをつけたものをおにぎりにして甘い小豆餡でくるんで出来上がりであるが、小豆餡を作る方がむずかしいかもしれない。春の「ぼたもち」の餡は小豆の皮が固くなっているため漉し餡にし、秋は小豆の皮が柔らかいので粒あんにするという。そして秋は萩の花にちなんで「おはぎ」と名を変えた。江戸時代にもよくつくられていた「ぼたもち」は現在のように甘くなかったようで、昭和40年代でも地域のよっては塩味であった。ぼたもちの呼び名も「夜舟」「となりしらず」などがあり、搗き餅のように音がせず作っているのがわからないことでの名称であり、お彼岸だけでなくお祝い事などにも近隣に配っていた。「棚からぼたもち」ということわざもある。
ところで最近は「ぼたもち」とはいわず「おはぎ」が主流である。和菓子屋の店名にもオハギが用いられ、「ぼたもち」は分が悪い。その「おはぎ」は餡を練り切りのように細工して食べるのが惜しいような和菓子に進化(?)している。もっとも本来の「ぼたもち」は老舗の和菓子屋のお彼岸のころにはお目見えするが、スーパーでは日常的にお弁当コーナーに「おはぎ」として売られている。
時代による変わり方はますます早くなり目を離せない昨今である、
大久保 洋子
次回は、3月21日 春分(しゅんぶん)です。