つなぐ「“わ”食」よもやま話

−北前船交易と和食文化−

     十一年前、ユネスコの世界無形文化遺産に登録された「和食」の歴史や文化には、北前船交易が深く関わっています。日本海側を内日本、太平洋側を外日本と呼んでいた頃、海の静かな日本海側を行き来していた、海路による交易です。
     特に北海道で採れる昆布や鰊、棒鱈などが、当時の大消費地、京や大阪に運ばれる花形の積み荷で、日本海側各地の特産物も大きな利益をもたらしました。山形で集められた紅花や能登の塩、越前の和紙などです。一方、蝦夷地と呼ばれていた北海道へは、当時収穫出来なかった米やお茶、味噌、醤油といった伝統的な食材が運ばれました。その頃から各地の名産や特産が有名になり、一気に和食は華やかになったと思われます。
     北前船は単なる運送業ではなく、船主や船頭の才覚で各地の商品を仕入れ、価格差の大きな地域で売りさばく、仕入れと販売を繰り返しながら日本海側を行き来していました。その利益は大きく、一航海につき一億円とも二億円ともいわれ、多くの人々が携わり、北海道と日本海側や瀬戸内を繋ぐ大動脈になることで、活気づきました。
     昔の日本人は料理の中でも、全国各地の様子に胸躍らせ、食べる事で楽しんでもきました。昆布のように高価で貴重な食材は、お正月やハレの日の祝膳を彩り、大量に運ばれる安価な食材は、普段の食卓へとメリハリがあり、毎年旬の時期に地方の食材が楽しめるといった楽しさも出てきます。その多様さが、今の和食の素晴らしさに残っています。
     また、北前船が広げたものは食べ物だけではありません。石川県山中温泉に古くから伝わる民謡「山中節」は、船頭さんや船乗りの口ずさみで、各地に残る民謡へと広がり、京の都や大阪の文化も全国に広がりました。
    地域、地域間の経済を補うように、各地の特産品ともいえる優れた商品が、大量に取引され、一大商品経済の勃興が見られます。当時、米中心の経済(封建時代)から、時代は大きく変わり始めます。固定した身分制度の中でしか生きられなかった時代から、自分の才覚で大きく稼げる時代がやってきました。天然の良港と呼ばれる地域から、多くの若者が海へと出て行き、諸国の事情に詳しく才覚にたけた船主達は、どんどん新たに船を建造し始めます。彼らの経済活動圏は全国へと広がっていき、一つの近代国家としての国の形が生まれてきます。
     日本の近代化に大きく貢献した北前船交易。日本海側や瀬戸内の寄港地には、今も多くの立派な船主の館が残っています。そのルートを繋ぎ、人や物が行き交う通路、大通り、回廊として発展させる「コリドール構想」の動きが、地方創生の大きな要として見直され、新たな地域間連携の動きになってきています。何気なく楽しんでいる郷土料理の中に、北前船が運んだ食材が、今も各地で生きています。食を介した連携や、文化、歴史を通じた連携と多彩な動きも出てきました。
     北前船の活躍した時代、そのダイナミックな躍動の歴史が、数百年経た今、地方(地域)を動かそうとしています。

    株式会社奥井海生堂 代表取締役 奥井 隆

    明治期に配布させて頂いた海生堂の引札
    帆走する北前船(明治末~大正時代)        出典:福井県立若狭博物館
    帆乾かし中の北前船(明治末~大正時代)      出典:福井県立若狭博物館