くらしの歳時記

8月31日 二百十日 にひゃくとおか

     雑節の二百十日は立春から数えて二百十日目にあたり、今年は8月31日になる。この季節になると水を抜かれた水田には、たわわに実った稲穂が頭を垂れ、豊かな実りの風景が広がり、平和な気持ちにさせる。ところが自然は過酷なもので台風シーズンでもあり、刈り取る寸前に被害にあう場合が多々生じた。二百十日は特に稲作農家をはじめ農産物生産者にとって気の抜けない日であった。1990年頃からグローバル化が始まり、技術革新がめざましく、人間の生活のリズムが急速に早くなるとともに、地球環境にも影響が表れている。台風も気候変動の影響からか、二百十日を待たずして到来している昨今である。
     話は変わるが 夏目漱石の小説に『二百十日』がある。二人の男性が阿蘇山に二百十日の台風到来にもめげず火口見たさに登る話である。その中に饂飩が登場する。阿蘇の饂飩については賞味したことがないのでわからないが うどん県といわれる群馬での思い出を今回は書かせていただくことにしたい。
     日本の小麦粉は近代になるまで中力粉の生産が中心であった。そのせいか子供のころは「うどん粉」といっていた。私の家では手打ちをすることはなかったが、村集落にいくと手打ちうどんを作っている女性の姿はよく見かけた。昭和の中ごろには、機器(パスタマシンとそっくりで生地の伸ばしと切る機能がある)を使って作っていたのも目にしている。
     町には「おさく茶屋」といううどん屋があり、窓柵から主人であろうおじさんが饂飩生地を足で踏む作業をしているのを子供たちはよく見ていたものである。そして、60年が経ち私は「I町」の調査のための講習会で、その饂飩踏みを体験することになった。体重をかけて全力で踏みつけ、グルテン形成を行うわけであるが、小柄な年配の女性講師からは踏み方のだめだしが出され、なかなか難しい作業であった。当時の饂飩屋のメニューがどんなものであり、食べた記憶もないが思い出の一コマである。
     群馬の煮込みうどんの「おっきりこみ」は生地に塩を入れず、出来立てをそのまま鍋にいれるので、汁にとろみが出て冬場にはもってこいの御馳走である。しかし、昭和の初めころのある村の記録をみると小麦粉は換金作物であったためか、悲痛な記述に目が留まる。その一例、「いたかなうどん」という文字を見て、一瞬「?」と思ったが、なんと「具材に隠れて饂飩はさがすくらいしか入っていない」という意味であった。皮肉を通り越して涙ぐましい、そこを笑い飛ばしている生産者の生きる強さを垣間見る思いであった。営々と積み重ねられた知恵と自然に対する畏敬の念の伝承の必要性を感じるこの頃です。

    大久保 洋子

    提供:和食アドバイザー検定協会

    次回は、9月7日 白露(はくろ)です。